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日志

 
 
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くじけない意志、孤高の魂、自由の心、未知へのenthusiasm、そして正義への固執。

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なぜ馬と旅?失われていた旅の形を、今に蘇る  

2012-04-07 19:35:35|  分类: 默认分类 |  标签: |举报 |字号 订阅

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なぜ馬と旅?失われていた旅の形を、今に蘇る - solitary_sun - 太陽は一人ぼっち

 

 馬と旅。現代にない旅の形。エコだとか、人間形成において大きな意義なあるとか、遊牧民支援の意義があるとか、様々なメディアにも取り上げられました。「奔流」もウェブページのあちこちで書いてありますが、返って経験していない人が、一体なんなの?ってわからなくなっているようです。ここで、私は自分の現場での経験と若者たちとの接触の中で感じたものを、「馬の上から見た世界」、「遊牧民の誇りを甦らせよ」、「若者よ、今と向き合え」、「人と馬がひとつになるということ」四つにまとめてみました。ちょっと長いですが、旅の参加をご検討している方はぜひ一度お読みください。以下:

 

 

 

「馬と旅」その1

~馬の上から見た世界~

 

シルクロード天山北路。ここは馬にのみ適した場所だ。広大な草原に轍はひとつもない。馬が存在したからこそ、古代シルクロードの中でも、この地はもっとも古くから栄えた。また馬の存在で、ここは世界史の軸を突き動かしてきたのだ。鐙がぶつかりあう金属音の中、かつての文明はまざまざと蘇ってくる。

 

馬の上では、歴史の角度から見ても、哲学の角度から見ても、或いは芸術の角度から見ても、今までとはまったく異なる世界が見える。それは、二本足で地に立つ者には到底届かない世界である。馬の上では、あなたは、何かと無理に探し、何かと求める自分をわざわざ表現する必要はなくなる。ただただ、馬に乗り、人類のもっとも偉大な道を進めばよい。そして自身の信念にひた向くこと。そこで多くを悟るだろう。たとえば、進化していくものはかならずしもいいものではない。またたとえば、無理して求めたものは瞬時に消えるかもしれない。それは馬の旅と徒歩の旅との大きな違いだろう。馬の旅からあなたが得られるのは、もっとも原始的で、もっともシンプルな概念であり、果てしない野望、また真の自分である。そして本当の自由を得る。それは今までのあなたが知ることのできなかった、心のもっとも深いところにある自由のスピリッツなのだ。

 

あなたの今までの旅に対する考えを捨てろ。何か国を周ったとか、世界遺産だとか、そんなことは忘れろ。この広い大地を馬で駆ける時、これらは重要でなくなる。風の中で、騎馬民族の錚々たる歴史が聞こえてくる。遠く去っていった大昔の文明が見えてくる。天山の雪溶け水を馬に飲ませ、匈奴の墓を枕にする。ここであなたは、広い空と大地を思う存分享有し、夜の星々はすべてあなたのものとなる。かつて突厥(とっけつ)帝国の()(がん)はここに帷幕を張り、ローマ帝国とも中華文明とも睨みあった。ここには、どんな建造物もいらない。風が過ぎた後、残るは記憶だけだ。そしてあなたと共に旅をするのは、かつて西の世界を震撼させた()()西()可汗が統率したモンゴル部族。彼らは祖国への帰還というひとすじの希望だけを抱き、ヴォルガ河流域から転々と戦いながら2万キロを経てこの地に辿りついた。それが、人類史上最後の民族大移動となった。以来、彼らはこの世界のもっとも豊かな草原に暮らしている。ここに、大音、大美、大きな文明があるのだ。

 

しかし、また何もない。居るのは、あなたと馬だけ。私たちはただただ馬に乗り旅をしている。それはすべてなのだ。

 

 

 

「馬と旅」その2

~遊牧民の誇りを甦らせよ~

 

激しく変化する季節風の中で、孤独な歩みを続けている遊牧民。私たちは彼らを尋ねた。馬で長い旅がしたい。馬を貸してください。その言葉に彼らは大いに喜び、自分たちの馬を連れて私たちのキャラバンに加わった。

 

日が経つにつれ、彼らと心が通い始めた。彼らの馬上の姿は、気高き騎馬民族の誇りを見せてくれた。彼らもまた僕たちと共に過ごす中で、希望を取り戻したようだった。遊牧民の馬を見る目に変化があった。それまで嘆きの目は輝きを取り戻し始めた。

 

大草原で暮らす遊牧民族は古来、馬で家畜を放牧し、自給自足の生活を行っていた。しかし近年、市場経済の嵐と外部の観光客が持ち込んだ物質文明によって、馬はそれに憧れ、馬と遊牧生活をやめ、草原を去り、街へと流れていく。しかし、騎馬民族にとって、馬を手放すということはすなわち、そのアイデンティティを放棄することと同じである。騎馬遊牧の誇りは現代文明の波の中で無惨に潰されているのだ。

 

騎馬民族は誇り高い。“助ける”“守ってあげる”のようなボランティア的発想を持っていては、彼らは私たちを受け入れるはずがない。同じ目線に立ち、彼らの苦労だけでなく、その喜びも知ることが大事だ。現代文明の中に暮らす私たちは、旅の手段に自動車ではなく、敢えて馬を選択する。そして、馬のスピリッツに深く共鳴することで、彼らはその大きな誇りを取り戻すに違いない。その事実は現代の価値観の中、遊牧民自身の騎馬文化に対する諦めを止める意味がある。また、現代人の騎馬文化への再認識にもつながる。草原をり、遊牧民を救う活動は多いが、草原に生きる彼ら自身が馬と遊牧生活に誇りを取戻し、遊牧の営みを選択することが、草原を守る第一歩となるのではないだろうか。

 

私たちが馬に乗りながら、吹きわたる風の中で見えるのは、時代の変化の中に立つ、ひとつの文明、ひとつの民族の姿なのだ。

 

 

 

 

「馬と旅」その3

~“今”と向き合う。手に握るのは手綱だが、捕まえたのは、生きるすべだ ~

 

“馬の気持ちを無視しなさい。”私の言葉に日本の若者たちは戸惑ったようだ。これまで彼らは馬に愛情を注ぐことだけが馬と旅する上で大切な心構えだと考えてきたからだ。しかし、自分の気持ちがくよくよしていては、馬が戸惑い、思い通りに走ってくれない。馬に愛情を注ぐことは大事だが、彼らに欠けているのは自分の確固たる意志だ。馬に乗る際に、その弱さが呈露している。

 

日本で、馬との触れ合いと言えば、飼いならされた馬を相手に行われ、動物へ相応の愛情を注ぐという行為は子供の優しい心を育てると一般的に考えられている。だが、それはつまるところ、馬でなくてもいいのだ。大自然の中に生きている馬に、優しい気持ちばかりで臨んではいけない。馬と触れ合うのではなく、馬と向き合うのだ。その対峙の中で、今の若者は大切なことを多く学ぶだろう。

 

その一つは、真剣に“今”と向き合う姿勢があると思う。馬で旅する時は、一瞬の油断も許されない。常に命賭けなのだ。日常生活や仕事では逃げ道はたくさんあるが、馬に乗る時、逃げ道はない。馬と旅する時、“今”と真剣に向き合わなくてはいけない。そして真剣に向き合っているからこそ、大きな喜びに出会えることに気づく。目の前のことに真剣さを失い、先のことに不安になったりして、日々悩む若者たちに、馬の旅で、“今”を掴む大切さを伝えられる。“今”を刻み、それを積み重ねた結果、将来となる。

 

馬と向き合うことは自然と向き合うことだ。現代のようなオートマティックの時代で、人間の生活空間がデジタル化され、人間らしく生きるための大切なものが見えにくくなってきている。馬に乗ることは今の時代の在り方をその根底から問いかける。たとえば、車の運転なら、アクセルを踏めば前進するし、ブレーキを踏めば止まってくれる。しかし馬の場合、そうはいかない。馬に乗る時、人間は一本の手綱だけによって馬に乗り手の意志を伝え、また手綱を通して馬の感情?馬からのシグナルを感じ取る必要があるのだ。この体験がいつの時代にも通用する普遍の知恵を教えてくれる。手に握るのは手綱だが、捕まえたのは、生きるすべなのだ。

 

 

 

 

「馬と旅」その4

~人と馬が一つになる。そこに途轍もない大きな自由があった。~

 

“人馬一体”は彫刻の最高峰と言われている。“人馬一体”とは果たしてどういったものだろうか。私が馬との一体感を味わったのはシルクロードの敦煌という場所だった。黒い砂粒以外何にもないゴビ荒野。地平線に向かって馬で駆けた時、普段なら途方もなく感じる地平線だが、その時それは猛スピードで自分に迫ってきた。その果てまで行こうというとんでもない野望に燃えた。そして馬も興奮した。自分の思いが馬に伝わったのか、或いは、馬の果てしなく駆けたいという思いが自分に伝わったのかもしれない。馬と一体となった時は、まるで体に化学反応が起きたようで、途轍もない喜びに満ち溢れ、体中を駆け巡った。

 

今思えば、それは人馬一体を味わった最初の瞬間だったように思う。ただ馬とリズムが合って一つになること自体は決して人馬一体とは言えない。人馬一体は抽象の世界なので、乗り手の感受によってその意味も変わってくる。私がその時に味わった途轍もない喜びは果たして何だったのだろうと、その疑問を頭に抱えつつ、15年間、馬に乗り、旅を続けてきた。そしてある日ふっと思った。その瞬間、私は本当の“自由”を手に入れたのだと。それは何ものにも縛られず、心が完全に自由になった瞬間だった。馬がもっとも尊ぶべき自由の形を見せてくれたのだと。

 

その尊ぶべき自由の形とは何か。馬を知らない人たちは、自由自在に草原を駆ける馬が自由の象徴だと思っているかもしれないが、それは違うと思う。人間が乗っていない馬は、広い草原にいても草を食べているばかりで、そこまで駆けたりしない。人間が馬を乗りこなして初めて、馬も生き生きし、人間もまた希望に燃え、体の細胞の一つひとつまで興奮しているのが分かる。その瞬間こそが、馬も人間も最大限の自由を手にいれた瞬間だと思う。人間の歴史を考えれば、支配する側とされる側。一方は自由になり、一方は自由を失う。しかし、人と馬とが一体となる時、双方がそれまでにない大きな自由を手にいれる。それこそ人間の憧れる理想的な自由の形ではないだろうか。人馬一体が古代から彫刻の最高峰と言われてきた理由は、そこにあるかもしれない。

 

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